江戸時代、諸国を遍歴しながら民衆に仏道を説く、
「聖」という修行僧の一群がいた。
円空はその一人だった。
寛永九年(1632年)美濃国、現在の岐阜市に生まれた。
同年、オランダでフェルメールが生誕している。
円空は幼少期に荒れ狂う長良川に母が流されていくのを
なすすべもなく、見ていた。
”おっかさん”を失った円空は後に「聖」となり、
山岳山林を歩き滝に打たれ、
貧しい民衆や病に苦しむ民に寄り添い、
「円空仏」と言われる子供の手にも収まる
素朴な木彫り仏を渡し歩いた。
それらは岐阜県関市“円空館”や仏閣などにあるものを含めて
12万体であるという。
彫った後の”木っ端”にも神が宿る。
円空はそれら木っ端にも仏を彫った。
初期の円空仏は不動明王のような荒々しいもの、
そして“アルカイックスマイル”の仏が多い。
晩年のものに、“おかお全て”が微笑みで、
座り込んでいつまでも見ていたいような
大木から彫りぬいた仏様がある。
その微笑みは、日々ざわついている心に染みいる。
「それでええんやないの、、、、?」
わたしの心にやさしく問いかける。
このような微笑みを絶やさず生きていけたらと、
思うばかりである。
ちなみに観音菩薩像は男でも女でもないそうだ。
円空は64歳で時を知り、
母を亡くした長良川のほとりに穴をほってもらい、
竹筒を地上に出し、入定し即身仏となった。
読経は二週間きこえたと言う。
円空は何度こころの中で“おっかさん”と呟いたであろうか。
円空の生涯は“おっかさん”と同行二人であり、
“おっかさん”の供養の人生であったと私は思う。
まことに母親の存在というものは、、、、
誠真実以外のなにがあろうか。
米寿の母は週一回デイサービスのカラオケを楽しみ、
父が12年前に亡くなって以来、
実家で質素にひとり暮らしている。
「親がしぬるということはなあ、、、」
いつだったか、母がぽつりともらした言葉が時おり頭をよぎる。
私は、、、
私は母を失い、両親がこの世からいなくなってしまった時、
想像できない喪失感と共に正常を保って生きていく事ができるのであろうか。
―おかあちゃん―
―なんや?―
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