昭和58年の宮古島空港は、ほったて小屋みたいだった。
子供とおじいちゃんがフェンスにへばりついて飛行機を見ていた。
えらいとこにきてもうた・・・
乗船場近くのホテルに泊まり、伊良部島に渡った。
漁港に着き、
「ここからどうやって・・・」立っていると、
漁港には場違いなサラリーマン数人乗った車から、
「どこに行くの?」と聞かれた。
19歳の女子大生2人連れも場違いに見えただろう。
渡口の浜まで連れて行ってくれた。
濃紺からうすい濃紺、うすい濃紺からブルー、
ブルーからエメラルド、アクアマリン
そして透明な小波になって白い砂浜にのってくる。
低い展望台から望むと、雲の切れ間からサーチライトの真夏の太陽が、
渡口の浜の海文様を口に尽くせぬ美しさにしていた。
貸し切りだった。
「地元の人ですか」と聞かれるほど真っ黒に日焼けしていた。
17年後、宮古島空港は関空みたいになっていた。
石垣島から南西航空で飛んだ宮古島に、
関空から直行便で飛び、宿泊者のふりをして昔忍び込んだ宮古島東急リゾートに泊まった。
1月の夜に裸体でバルコニーに出られた。
夜気は密度が濃く、日本の南国を実感した。
伊良部島への乗船場は立派なターミナルになって、
真冬の渡口の浜には人がはいっていた。
下地空港はまだ放置されていた。
宮古島空港がほったて小屋の時、
テレビはNHKのみでロサンゼルスオリンピックの年だった。
「南大東島、晴れ」男性アナウンサーの低音を毎晩聞いた。
掛持ちアルバイトで貯金し安宿に泊まり、ガイド本片手にレゲエを聴きながら宮古島、
石垣島、黒島、竹富島、西表島を旅した。
西表島の山道は裏六甲並みにカーブがきつく、宿に向かうバスで私たちは無口になった。
「レゲエ、きこか、、、」
片耳イヤホンレゲエのお陰で、車酔いせずにすんだ。
台風で帰阪に5日も那覇で足止めをくらった。
ホテル正面にシャッターが下りるのを初めて見た。
隣のホテルのディスコに行ったが、夏夏夏夏ココナツでは踊れなかった。
頭にかざしたビーチマットはいとも簡単に風にもぎ取られ、魔法の絨毯を見た。
毎日A&Wを食べ、伊丹に着いたらひと皮むけて白くなっていた。
梅雨の晴れ間の蝉の声に胸が高まった
19歳の夏休みはまだまだ続いている。
サトウキビ畑に放たれた子どもの様な、
自由で極上の時を生きていた。
コメント