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YOKO

渡口の浜

更新日:2023年1月12日




昭和58年の宮古島空港は、ほったて小屋みたいだった。

子供とおじいちゃんがフェンスにへばりついて飛行機を見ていた。


えらいとこにきてもうた・・・


乗船場近くのホテルに泊まり、伊良部島に渡った。

漁港に着き、

「ここからどうやって・・・」立っていると、

漁港には場違いなサラリーマン数人乗った車から、

「どこに行くの?」と聞かれた。

19歳の女子大生2人連れも場違いに見えただろう。

渡口の浜まで連れて行ってくれた。


濃紺からうすい濃紺、うすい濃紺からブルー、

ブルーからエメラルド、アクアマリン

そして透明な小波になって白い砂浜にのってくる。

低い展望台から望むと、雲の切れ間からサーチライトの真夏の太陽が、

渡口の浜の海文様を口に尽くせぬ美しさにしていた。


貸し切りだった。

「地元の人ですか」と聞かれるほど真っ黒に日焼けしていた。


17年後、宮古島空港は関空みたいになっていた。

石垣島から南西航空で飛んだ宮古島に、

関空から直行便で飛び、宿泊者のふりをして昔忍び込んだ宮古島東急リゾートに泊まった。


1月の夜に裸体でバルコニーに出られた。

夜気は密度が濃く、日本の南国を実感した。

伊良部島への乗船場は立派なターミナルになって、

真冬の渡口の浜には人がはいっていた。

下地空港はまだ放置されていた。


宮古島空港がほったて小屋の時、

テレビはNHKのみでロサンゼルスオリンピックの年だった。

「南大東島、晴れ」男性アナウンサーの低音を毎晩聞いた。


掛持ちアルバイトで貯金し安宿に泊まり、ガイド本片手にレゲエを聴きながら宮古島、

石垣島、黒島、竹富島、西表島を旅した。

西表島の山道は裏六甲並みにカーブがきつく、宿に向かうバスで私たちは無口になった。


「レゲエ、きこか、、、」

片耳イヤホンレゲエのお陰で、車酔いせずにすんだ。


台風で帰阪に5日も那覇で足止めをくらった。

ホテル正面にシャッターが下りるのを初めて見た。

隣のホテルのディスコに行ったが、夏夏夏夏ココナツでは踊れなかった。


頭にかざしたビーチマットはいとも簡単に風にもぎ取られ、魔法の絨毯を見た。

毎日A&Wを食べ、伊丹に着いたらひと皮むけて白くなっていた。


梅雨の晴れ間の蝉の声に胸が高まった

19歳の夏休みはまだまだ続いている。


サトウキビ畑に放たれた子どもの様な、

自由で極上の時を生きていた。







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