昭和45年、私が幼稚園に上がると母は家族を置いて、
病気療養しに倉吉に帰省した。
小学校一年生の担任が、ガリ版で毎日作成していた学級プリントに、
母の投稿が載っている。
「 母の日に寄せて M 」
カーネーション、ほんとうにありがとう。
五年あまりの長い病気に苦しみ、何度死というものを考えたことか。
一度ならず二度、三度と二人の子供を残し、
遠いいなかに帰ったわたしにとって、
この母の日は感慨無量の一日でした。
子供が後を追ってきてはと、主人の心づかいで外に遊びに連れて出ていただき、
うしろ髪ひかれる思いで飛び乗った汽車で
いなかの母と思いきり泣いた。
乳のみ子でも別れて暮らさなければならない人もある、
元気になれば、また子どもといっしょに暮らせるのだからと、
母に力づけられたこともしばしばあった。
子どもたちと別れる日、主人は
「ふたりをしっかり抱いてやってくれ、そうしてやれるのもお前しかいないのだから」
と言った。そして主人は泣いた。わたしも泣いた。
子どもは、
「どうして家にいてくれないの、ようこのそばにどうしていてくれないの」
と、抱きついて泣いた。
ねまきを出して、「おかあちゃんのにおいがする」
といっては呼び続け、泣き、
主人を苦しめた日もたびたびあったとのこと。
いなかで養生しながら、毎朝氏神様にお参りする時、
いつも通学する子どもたちの姿を見る。
私は胸がはりさけそうで、目に浮かぶ我が子の姿をかき消そうと、
だれも通らない裏道を走った。
そして「負けるものか、負けるものか」と言いながら、長い石段を登った。
ほんとうに忘れられない日。
そして、氏神様に日参する年老いた母の後姿に何度手を合わせたことか。
「子を思う親にもまさる親心」このことばが、
その姿からにじみ出るように感じた。
思い出しても胸がつまり、とめどなく涙が流れる。
幼稚園で母の日、先生が
「おかあさんのいない人は?」とおっしゃったとき、
立ち上がったのはひとりだったと後で聞く。
そのカーネーションを持って帰ったあの子はそれをどうしたのだろう。
小さな胸を、どんなに痛めたことであろう。
病気という大きな節にあい、私は来る日も来る日も泣き明かした。
そして、ただ子どもたちと暮らせる日を楽しみに頑張った。
その節が、大きければ大きいほど、また、多ければ多いほどじょうぶな、
そして立派な大木に育つのだと聞く。
完全なからだではないが、今、私はこうして子どもたちと暮らせることができている。
そしてこの母の日、私は初めて赤いカーネーションを胸につけた。
しあわせが、からだいっぱいに広がった。
白いブラウスの胸につけた赤いカーネーション。
私は、何度も何度も両手でさわってみた。
ほんとに、ほんとに、ありがとう。
母の三面鏡に正座して鏡の左側に映る父を見ていた。
黒の一本細ゴムを歯でくわえ、真剣な顔で私の長い髪をくくっていた。
引っ張られ過ぎて身体が傾く位、くくっていた。。
母が不在の間「父のきつきつツインテール」で登校していたのだろう。
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